宗教多元主義は、人間が人間の英知を具現しようという、人間至上主義的な発想である。世界の神々が互いに争って困るので、人間が神々の間の調停役を買って出、「実はあなたたちは同じ一つの神なんだよ。知らなかったの? だから仲良くしなさいよ」と説得しようというわけである。つまり、人間の理性が神々の上に立っていることになる。いや、宗教多元主義の本心は「人が自分に似せて神々を作ったのであって、神々の神は実は人間である」ということになるのだろう。実際、多神教においては、人間は神が神だからというので崇拝するのではなく、神が人間に奉仕してくれるから崇拝するにすぎない。御利益がなければ見捨てられる神々である。人間の方が権威を持っているのだ。もっとはっきり言えば、人間こそが「超越神」なのである。
また、宗教多元主義は、聖書でいえば創世記に登場する「バベルの塔」再建の発想である。まだ言葉が一つだった時代、シヌアルという土地に移住してきた人々はレンガとコールタールを用いる当時最先端の建築技術で、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を挙げよう。われわれが全地に散らされるといけないから」(創世11:4)と、壮大なプロジェクトにとりかかった。しかし、この企ては主なる神に途中で阻止され、彼らの言語は混乱させられる。互いに言葉が通じなくなったのだ。その結果、人類はいくつもの民族に分かれていくことになる。と同時に、もともと一つであった宗教も分裂してしまった。だから多元主義者たちは言う。「バベルの塔をもう一度建て直し、超越神に届かせて、神々はもともとは同じ神なんだと知らせよう。そうすれば神々はもはや争わなくなる」。
◆古代イスラエルの唯一神信仰の敵は、宗教多元主義であった
ところで、古代イスラエル人の敵こそは、この宗教多元主義であった。彼らは唯一なる神を信じたがゆえに、多元主義者たちの迫害に悩まされ続けた。
古代イスラエルは、メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシャ・ローマ文明が衝突する交差点に置かれた弱小国であった。イスラエルは大中小のさまざまな民族と宗教に取り囲まれて、常にその侵略の危機にさらされていた。イスラエル民族も外見上はそれらの諸民族の一つにすぎない。ただ、一つの点だけが異なっていた。他のすべての民族はそれぞれ偶像の神々を崇拝していたが、イスラエルだけは目に見えない唯一絶対の神に仕えていたのである。「人が自分に似せて神を作った」のが偶像の神々なら、「自分に似せて人を造られ」「偶像を拝んではならない」と命じられたのが、イスラエルの神である。
宗教多元主義者による迫害とは要するにこういうことである。「あなたがたの主である神に対する信仰を捨てろというのではない。自分の神を礼拝していい。ただ、ほかの神の存在も認め、それにも敬意を払いなさいと言っているだけである。拒否するなら罰する。」しかし、これが迫害になるとは思ってはいない。
聖書に出てくるその典型的な例は、バビロンの王ネブカデネザルが出した勅令である。
「ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」(ダニエル3:5-6)。
|