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真珠の門となる使命は、決しておごり高ぶるものではありません。むしろ恐れ多い敬虔な召しです。パウロはこう言っています。「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。」(ローマ11:28-31)
異邦人による長い迫害によって、彼らは神に敵対する者となってしまいました。しかし、永遠にお変わりにならない神は、彼らの先祖に約束された通り、彼らを愛し続けておられます。それどころか、彼らの召命は決して変わることがないのです。私たちが受けたあわれみを、今度は彼らに返すときがやってきました。
◆戸口に立たれる主
「再臨が来る! 再臨が来る!」と、この2000年間言われ続けてきました。まるで狼少年の物語のように、「今度もまた狼は来ないよ」と思っておられる方も多いのではないでしょうか。また、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と書かれているとおり、その日は天の父なる神しかご存じありません。人間的にその日を知ろうとして、異端が生まれ、大変な問題が歴史的に繰り返されてきました。私たちは同じ失敗を決して繰り返してはいけないと思います。
しかし同時に、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)というみことばにも目を留めなければなりません。
主は何の警告もなく、黙って来られるようなお方ではありません。イチジクの木に芽を出してしるしを見せ、私たちに準備を整えるように警告してくださっています。
◆どのようにして…
では、恵みを受けた私たちクリスチャンは、どのようにしてこの使命をまっとうしていけばよいのでしょうか。ルカ伝13章6節から9節に、「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」という例え語があります。
このイチジクは、まったく実を結んでいません。しかしこの番人はこの木に実を付けるために、一生懸命肥やしを入れ、世話をすると言っています。あまりにもかたくななユダヤ人に対する伝道は、一見なんの実も結ばず、いっそのこと「切り倒してしまえ!」と叫び出したくなることも多いものです。あの偉大なるマルチン・ルターでさえ、ユダヤ人の魂に対する情熱が、最終的には彼らをのろうまでに至ってしまいました。
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