BFP JAPAN 高田篤美 2002年3月
今回のプレイヤーレターでは、イチジクの木、そしてイエスが語られた「真珠の例え話」から、ユダヤ人の救いと、そこにかかわる私たちの役割について、具体的に学習していきたいと思います。
マタイ伝21章18節から19節に、次のようなみことばがあります。「イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにイチジクの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちイチジクの木は枯れた。」
お腹が空いたイエスは、イチジクの実を期待して木に近付かれましたが、その木には実がなっていませんでした。そこでイエスはその木を枯らしてしまわれた訳ですが、常識的に考えるなら、この行動はまったく納得がいきません。なぜなら、マルコ伝11章13節には、「いちじくのなる季節ではなかったからである」と書かれているからです。季節外れなのですから、実がないのは当然だと言えます。いったいイエスのような愛のお方が、どうしてこの木を枯らしてしまわれたのでしょう。
◆本当に季節外れだったのか
この箇所を理解するためには、まずイチジクの木の生態について知る必要があります。イチジクという漢字は、「無花果」と書かれるように、花が実になるのではなく、いきなり実を結びます。あまり知られていませんが、3月ごろから実を付け始める「初なりイチジク」と8、9月に収穫される「秋イチジク」と、年間2度実を付けます。一般的に食用として販売されているのは、秋に収穫されたものです。しかし、出荷こそされませんが、春に採れるイチジクも十分食することができます。季節はちょうど過越祭の頃でしたから、イエスはこの初なりイチジクを期待して、木に近付かれたことがわかります。ここから、聖書に書かれている「季節ではなかった」という表現は、出荷用のイチジクがなる季節ではなかったと解釈することができます。
しかし、まだ疑問は残ります。実がなっていないからといって、なぜ枯らしてしまう必要があったのでしょう。
◆実を結ぶことができなかったイスラエル
イエスはその生涯のすべてを賭けて、全力で「イスラエルの失われた魂」に福音を伝えられました。しかし、その民の指導者であるパリサイ人や律法学者たちは、福音に耳を傾けないばかりか、イエスに従おうとする人々の前に立ちはだかり、イエスを完全に拒絶しました。ルカ伝11章52節に書かれている通りです。「忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」
イエスが他ならないイチジクの木を枯らされたことには、預言的な意味がありました。聖書の中で、イスラエルは「イチジク」に例えられていますが、まったく実を結んでいないその姿は、福音に耳を傾けず、実を結ばない民の姿そのものでした。イエスを拒絶したイスラエルは、その後どうなったでしょうか。イチジク同様、国家的なのろいを受けて国を失い、古代イスラエルは完全に枯れてしまいました。
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