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 使徒6章8節から7章60節で、ユダヤ人の一派に訴えられて法廷に引きずり出されたステパノは、彼らをあえて「無割礼の人たち」と呼びました。ステパノは、彼らをどうしてこのように呼ぶに至ったのでしょう。答えは明白です。彼らは聖霊に逆らっていました。彼らの行いは肉に基づいていました。逆に神が成されることは聖霊に基づいています。彼らはこのことを理解することができませんでした。それゆえに、無割礼の者と呼ばれたのです。

 現実に、キリストが十字架上で肉の死に至られたとき、私たちの肉もまた死にました(ローマ6:6)。コロサイ3章5節では、肉の死と共に以下のものを葬るようにと教えています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」

 出エジプト記4章24節から26節で、神はモーセを殺そうとされました。なぜなら、モーセが彼の息子に割礼を施していなかったからです。そこで、モーセは急いで息子に割礼を施しました。その後モーセは、神と顔と顔を向き合って語り合えるまでになりました。聖書のどこを読んでも、神を直接仰いだ者はモーセ以外に存在しません(出エジプト33:20、申命記34:10)。イスラエルの人々は神を恐れていたので、モーセに、神のみ傍に近づき、み声を聞くように懇願しました。すでに肉に死んだ者であったモーセは、彼らの頼みに応じることができました。かつてモーセはエジプトの地において、王子として「言葉と行いにおいて力ある者」でしたが、神が彼をミデヤンの荒野に追いやった後、彼は自分のことを「口が重く、舌が重い」と表現するまでに変えられていました。モーセには、エジプトでパロたちの前に立つために、自分の代弁者として兄アロンを伴う必要がありました。ミデヤンの荒野での試練をとおして「肉の人」としてのモーセを、神は完全に打ち砕かれたのです。神のみ顔を拝する機会を探し求めるよう、聖書をとおして、今私たちは試されています(詩篇27:8、105:4)。「神のみ顔を仰ぐ」ということは、肉に対する死刑宣告であるということを理解する必要があります。これは、私たちの肉体に死をもたらすのです。

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、約束の地に入ろうとするまさにその時、「ギルガル」という場所で、「再度、割礼を施すように」と神はお命じになりました(ヨシュア5:2-9)。今日の私たちもまた、彼らのようにギルガルの地に立っているのかもしれません。神は鋭い石のナイフを携えて、備えておられます。石のナイフ、または火打石のナイフは、神のみことばの象徴です。これらのナイフは、岩のようにこつこつしていますが、同時に鋭い両刃の剣でもあります。また、「ギルガル」という地名は「転がる」という意味を持っています。神はご自分の民を「転がす」、すなわち方向転換させる用意ができておられます。しかしまず始めに、エジプトでの不名誉と、私たちを妨げる肉の両方を断ち切る必要があるのです。神はみことばを用いて、私たちの心に割礼を施してくださいます。

 

 
 
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