今日、多くの国で何百万ものクリスチャンが厳しい迫害を受けています。スーダンのキリスト教徒たちは、イスラム主義を掲げる政府により、組織的に排斥されています。ここ数年スーダンでは、約150万人のクリスチャシが殺され、その他に100万人の行方がわからなくなっています。エジプトのコプト教会の信徒たちも、非常な苦しみを受けました。また、ベトナム、中国、イラク、イラン、そしてパキスタンのクリスチャンたちも苦しんでいます。世界伝道団体は、キリストの時代から今日に至るまで、殉教したクリスチャンの数が最も多いのが、今世紀であると発表しています。
はじめに書いたように、「こんなことが起って良いのだろうか……」と考える人がいるかもしれません。私たちのリーダーの中には、苦しみは信仰によって防ぐことができると主張し、苦しみのすべてを主の御名によって叱りつけ、取り去る祈りについて学んでいる人もおられるでしょう。しかし聖書はそれについては示唆していません。
詩篇97篇10節に「主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される」と書いてあります。詩篇91篇16節では、義人に長い命を与えると約束しています。しかしステパノは非常に評判の良い、み霊と知恵に満ちた人だったにもかかわらず、若くして最初の殉教者となりました。キリストのゆえに受ける苦難は、殉教以外にも、もっと微妙なさまざまな形があります。それは、自分の愚かさや利益などとは関係なく、他の人々への愛や救いのために受ける苦しみで、拒絶、悪口、中傷、迫害、圧迫、霊的攻撃、病気などがあります。
聖書は次のみことばで、信者が苦しみに遭うことを語っています。「確かに、キリスト・イエスにあって敬度に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第1テモテ3:12)現実に、気づきにくい、微妙な迫害がたくさんあることでしょう。例えば、昇進させてもらえなかったり、理由もわからず友だちが離れて行ってしまったりノノなどです。それらは、信仰告白によって起こりうる、はっきりしない形の迫害と言えるでしょう。キリストのゆえに苦しむことが、すなわち神に愛されていない、あるいはみ心から外れているという意味ではありません。しかし、己の罪や愚かさからくる苦しみがあることもまた事実です。愚かにならないためには、自分の中に高慢や差別的な気持ちを育てないように気をつけなければなりません。
他の人々への愛や救いのために受ける苦しみについて前述しましたが、その中にどうして病気が含まれるのか、不思議に思われたかもしれません。それについて、聖書を見てみましょう。パウロは、「自分の肉体に一つの棘が与えられていた」と書いています。ある人は、彼は目が悪かったのではないかと憶測していますが、聖書を見ると、何かもっと不快さを伴うものであったことがわかります。彼は神にそれを取って」くださるように何度も祈りましたが、その願いは受け入れられませんでした。そして最終的にパウロは、この病があがないの目的のために与えられていると理解しました。それは、彼が受けたすべての素晴らしいみ業によって、高ぶることがないためでした(第1コリント12:7)。
ヨブも同様です。彼はすべてを失い苦しみました。財産、子ども、そして最後には健康までも。彼の苦しみは、真実神のためでした。彼の壮絶な苦悩は、神ご自身の栄光と、神の国のために起ったのでした。もし私たちが神のお考えをすべて聞くことができるなら、この世で与えられる苦しみは、もっと負いやすくなるに違いありません。
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