BFPガリラヤ・スタディーセンター前所長 ジム・ゲリッシュ 2001年6月
ヨブの時代から、人間の悩み苦しみの謎は、義人をとまどわせてきました。今日も多くの人が「なぜ義人が苦しまなければならないのだろうか」という疑問を持っています。「そんなことはありえない」という少数意見の傍ら、多くの人は体験や聖書の教えから、それが起こりえると確信しています。
その一例として、第1ペテロの手紙には、苦しみや試練についてのテーマが織り込まれています。この短い書簡の中で、“苦しみ”“試練”“苦難”の三つの言葉が、全部で19回も使われていました。苦しみの問題は、他にも聖書の多くの箇所に書かれています。今回はこの「苦しみ」について、さまざまな局面から学んでいくことにしましょう。
◆生活の一部としての苦しみ
まず、生活にまつわる苦しみについて考えてみましょう。生活の中には、争い、堕落、挫折、心配、骨折り仕事……などなど、さまざま有形の苦しみがあります。創世記で読むように、人の道には困難や苦しみの棘を持つイバラやイラクサが茂っているのです。アダムとエバが最初に罪を犯した後、創造主が試みや困難の中に、これらの苦しみを加えられたことは確かだと思います。神は人々が救いを知るために、小さな圧力を置かれたのかもしれません。結局、すべてが整えられていたエデンの園を、罪深く反抗的な人間が歩き回ることは許されませんでした。
こうした呪いの一部に、誰もが経験したことのある、病気や肉体の痛み、そして最終的には死も挙げることができるでしょう。第2テモテ4章20節に、これについての言葉があります。「トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。」使徒パウロが短く述べているこの言葉から、初代教会の使徒でさえ病気になったことがわかります。そして、あの偉大な使徒パウロでさえ、この病を癒せなかったことがわかります。パウロの弟子であり同僚でもあったテモテも、絶えず胃の問題で悩まされていました(第1テモテ5:23)。そして、エパブロデトも、パウロと一緒にいるとき病気になり、ほとんど死にかけたと書かれています(ピリピ2:25-27)。
このように、信仰の基礎を築いた初期のクリスチャンでさえ病気になったのですから、すべての病を「信仰が弱いせいだ」などといって否定するべきではありません。病気を否定することは、私たちを偽善に導きます。もしすべての病が癒されるというなら、それは死の存在を否定しているのと同じことです。聖書には、死は依然としてこの世界に存在し、主が最終的に打ち倒す敵であると書かれています(第1コリント15:26)。主が来てくださらない限り、すべての人が最終的に死の苦しみを味わわなければなければならないのです。しかし誤解しないでください。ここまで述べてきたことは、病を癒す信仰を否定するものでは決してありません(ヤコブ5:15)。神は癒しのために、いつどのように祈るべきかを導いてくださいます。
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