イエスは地上のどの国よりも先に、イスラエルにご自身を現されました。そしてイスラエルをとおして、ご自身を異邦人にも現されたのです。彼が私たちにもたらしてくださったものは、非常に単純なものです。ローマ人への手紙10章9節には、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」と書かれています。
また、すべての人々に対する神の呼びかけである次のみことばには、そのことがより簡潔に記されています。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:13)
これこそ、恵みと信仰のみによる、単純な救いの原理です(エペソ2:8参照)。もともと神に捧げるものを何も持たない私たちですから、救いは自己の正しさによるものではないことが明白です。これこそ、イエスによる救いが「良き知らせムゴスペル(福音)」と呼ばれるゆえんです。
イスラエルの父祖アブラハムは、この「神から与えられる正しさ」を、はるか昔に見いだしました。旧約聖書にはこう記されています。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)
かのダビデもまた、この正しさを見いだした一人です。彼は詩篇32篇1、2節で次のように語っています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
今日、世界の幾千万もの人々が、この単純な救いの計画によって贖われています。神がすべての人に対して語っておられるメッセージが、ヨハネの福音書3章16節のみことばにまとめられています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
これは、小さな子どもにも理解できる、単純な神のご計画です。
◆罪を赦された私たちは、神に自由に仕えることができる
一度救われたからといって、後は何をしてもよいということではありません。イエスを信じて救われた私たちは、主にお仕えする人生を歩むべきです。イエスが人間の主となられ、私たちはそのしもべとなりました。まず初めに、洗礼を受けることを主は求めておられます。(使徒2:38)
「良い行い」に対する私たちの考え方は劇的に変化しました。私たちは神を喜ばせるために良い行いをするのではありません。大いなる救いをくださったそのあわれみと、神の願いに対する応答として良い行いをするのです。人間の善行で、神が支払ってくださった代価を返すことなど、とうていできません。
神の一方的な恵みと救いを思うとき、これが行いによって与えられたものではないことが良くわかります。また信仰でさえ、私たち自身のものではなく、神から与えられたものなのです。クリスチャンは、実体験からそれを良く知っています。聖書にこう書かれているとおりです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8、9)
|