また、詩篇53篇1節にはこう書かれています。「愚か者は心の中で『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」
また、偉大な預言者イザヤは、こうつけ加えています。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ64:6)
“人間の邪悪な本質”という概念は、パウロが書いたローマ人への手紙によって、次のように要約されています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。」(ローマ3:23)
「自分たちの内側には、良いものなど何も存在しない」という境地に達するとき、私たちは神のもとへ助けを求めに行くことができます。自分の邪悪さから喜んで訣別するとき、私たちは「悔い改め」という段階に入っていくのです。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒3:19)
悔い改めに関する最高の例話は、ルカの福音書15章にある「放蕩息子」です。ある若者が、父の家を出て遠い国へと旅立ち、彼はそこで、悪い行いによって身を持ち崩してしまいました。最後には、当時汚れた職業とされていた養豚業に従事するまでとなり、豚の餌であった雑穀で飢えを満たすほどでした。
若者はその時点でやっと回心し、父の家へ戻る決意をしました。父のところへ帰るということは、彼にとって全てのプライドを捨てることでした。そしてそれは罪深さから離れ、父の家で「奴隷のひとりとして扱われてもかまわない」という決意による、非常に謙遜なものでした。
◆人間は、恵みと信仰をとおして立ち帰ることができる
過去において、神は人間の罪深さと取り組まれました。古代イスラエルの「供え物」に関する複雑な規定のすべては、この人間の罪深さを取り扱ったものです。神は、罪とそれによって起こる堕落の重さを教えるために、罪のいけにえとして動物をほふることを要求しました。しかし、これらの動物のいけにえさえも、人間の犯した罪を完全に取り除くことはできませんでした。もしそれが可能だったなら、毎年のようにいけにえが捧げられる必要はなかったはずです(ヘブル10:2参照)。
この「罪の問題」を解決し、ご自分と人間の間にある溝を埋めるために、今から約2000年前、神はある劇的な手段を取られました。人間からは、神のそばに近づくことはできません。ですから、神ご自身が私たちに歩み寄ってくださったのです。「神は私たちと共におられる」これが「インマヌエル」です。これこそ、私たちが毎年のようにクリスマスで祝うテーマの中心です。預言者イザヤはこう予見しました。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)
クリスチャンは、神ご自身がこの肉の世界に住むために来てくださったことを信じています。神は、「イエス」というひとりの人として、私たちのもとに来られました。そしてこの方こそ、私たちが「メシアインマヌエル」と信じるそのお方です。主はこの地上で人間として生き、罪の贖いのために死なれ、神のみ力によって復活され、今は神の右に座しておられます。
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