手のひらを返したようなダビデのこの変わりようはいったいどうしたことでしょう。もし私自身がダビデの立場にあったなら、病気のとき以上に泣き叫び、子どもとの思い出を繰り返し思い出しながら悲しみ続けることでしょう。また、私の罪が子どもの命を縮めてしまったことを後悔し、目分の心を責めるに違いありません。
ダビデは悲しくなかったのでしょうか。決してそんなことはありません。ダビデほど子どもを愛していた父親はいませんでした。特に、愛するバテ・シェバとの間に生まれ出た子どもです。どうして愛しくないはずがあるでしょう。家来たちの「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」(同12:21)という質問に対して、ダビデはこう答えています。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」(同12:22、23)
このことばの中に、彼の神への信仰を見ることができます。もし彼が子どもに束縛され、執着し、その死を恐れていたのなら、このような行動は取れなかったでしょう。肉的にどんなに愛しているものであっても、ダビデにとって神以上のものはありませんでした。そこに、「神が命を取ることをお決めになったのなら、私はそれに従う以外にありません。」という、神の御前にすっかり手放した姿勢を見ることができます。そして、目に見える現状がどんなに悪くても、神のなさることに決して間違いはないという信頼がそこにあります。
◆束縛からの解放
では、この恐怖から解放されるには、どうすればよいのでしょうか。みことばは、こう語っています。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(
I ヨハネ4:18)
恐れを締め出す“全き愛”は、どこにあるのでしょう。それはイエス・キリストご自身の中にあります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:16)と主はおっしゃいました。
ここで間違えていただきたくないのは、イエスご自身を受け入れることがいのちを得ることであるということです。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
イエスには束縛がありません。しかしイエスの教えに固執して、肉の努力をしようとする“行い”には束縛があります。
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