◆シオンと聖さ
それがいかに不可能に見えたとしても、汚れた世界のただ中においてでさえ、神は聖なる民を集められるでしょう。そして聖なる地と聖なる町をも回復されることでしょう。聖書に書かれた聖めへの働きは、シオンへの帰還と非常に密接に結びついているようです。預言者オバデヤはこのことを簡潔に表現しています。「しかし、シオンの山には逃れた者がいて、そこは聖なる所となる。」(オバデヤ1:17、新共同訳)
預言者イザヤも、この思想についてさらに明瞭に書いています。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」(イザヤ35:8)
また、同じくイザヤ書4章3節では、シオンに残された者は誰もが皆、いつの日か聖と呼ばれようになる、と語っています。そして人々は彼らを「聖なる民、主に贖われた者」(イザヤ62:12)と呼ぶとあります。エルサレム全体が神聖になり、他国人はもうそこを通らないとも書かれています(ヨエル3:17)。
さらに黙示録では、新しいエルサレムの聖さについて読むことができます。黙示録22章15節によって、「多くの人々はこの町に入ることができない」と私たちには知らされているのです。「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」
神が働かれるときはすべてを徹底的になさいます。預言者はさらに、エルサレムでは普通の鍋さえも祭壇の前の聖なる鉢のようにされ、エルサレムの馬たちがつけている鈴には「主への聖なるもの」と刻まれると述べています(ゼカリヤ14:20-21)
◆私たちはどうすれば聖くなれるのでしょうか?
私たちはクリスチャンとして、聖めを一連の「救いのパッケージ」に含まれるものの一部だと信じています。聖めは、贖いに基づいて天から私たちに与えられる賜物の一つです(へブル13:12)。へブル書10章10節には、イエス・キリストの体がただ一度だけ捧げられたことにより、私たちは聖なるものとされているとあります。そしてヘブル書10章14節では、この犠牲が持つ永遠性について読むことができます。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
預言者エレミヤが次のみことばでメシアについて語ったとき、このことを指していたのだと私たちは信じています。「その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」(エレミヤ23:6)
このように、聖め、あるいは聖さは神がくださる賜物ではありますが、それを自分たちの生き方に適用していく私たちの側に責任がないわけではありません(第2テモテ2:21、第2コリント7:1)。聖書からは聖めの過程について、いくつか学ぶことができます。聖さや聖めは信仰から来ると聖書には書かれています。また、みこころにかなわない悪いことばを口にせず、あるいは日々絶え間なく神のことばに思いを止めることによってもそれは得られるのです(ヨハネ17:17、エペソ5:26)。
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