◆聖くない世界
聖さが私たちすべてに対する神の完全さの規準であるにもかかわらず、聖くない世界に私たちは生きているという悲しい現実は変わりません。私たちが今日の世界を歩むことは、まるで下水溝を泳ぎ抜けるようなものです。この世は悪で汚され、汚染されています。ただ生きているというだけで、私たちの心と体は今の悪い時代に汚されてしまうのです。
教会は、その誕生のときからこの世の不浄な思想や概念に影響されてきました。使徒の働きには、虚栄のために偽って真の姿ではない自分たちを示そうとしたアナニヤとサッピラについて書かれています(使徒5:1-11)。後にパウロは、一度は忠実な働き人であったデマスが「今の世を愛し」、彼を捨ててテサロニケへ行ってしまったと歎いています(第2テモテ4:10)。主に愛されたヨハネでさえ、権力を愛し使徒たちを受け入れない牧師デオテレペスの教会では、思うように働くことができませんでした(第3ヨハネ1:9)。
数世紀後には世の悪い概念があまりにも教会に浸透してしまったために、神聖だった教会の役職は「最高額の入札者」(=悪魔)に売り渡され、免罪符(カトリック教会が告解の秘蹟以外に与える、すでに赦された罪に対する罰の有限の赦し)がお金で購入できるようになり、人々に罪を犯す言い訳を与え、真の聖徒たちは罪深い汚れた教会指導者たちによって組織的に火あぶりの刑に処せられるようになりました。
過去400年間で多くの改革がなされたにもかかわらず、私たちはいまだに、教会に全く間違いがないと宣言することができません。20世紀の教会は、ここに枚挙しきれないほど多くの面で、自らが存在している世界によって汚されてしまいました。近年、アメリカではこの事実がテレビで明らかにされ、堕落した教会指導者たちに関する報道が続々と流されました。教会という名の箱舟には、すでに破滅を予感させる勢いで水が入ってきているのです。今、私たちは目をそむけずに自分たちの危機的状況をしっかりと見つめ、ためらわずに箱舟を水に浮かべるべきです。
問題を抱えているのは教会だけではありません。神が聖なる民になるようにと召し出されたユダヤ人たちも、その聖さの水準にはいまだに到達していません。ユダヤ人たちは多くの優れた、賞賛に値する働きを行なってきましたが、それでもクリスチャンと同様、聖くなってはいないのです。彼らはその汚れのゆえに、祝福された自分たちの土地から追い出されました(エレミヤ29:18-19、エレミヤ13:22)。それからほぼ2000年間、世界中の国々に彼らは散らされたのです。神は預言の中で、この離散とユダヤ人の行いとについて語っています。「彼らは、その行く先の国々に行っても、私の聖なる名を汚した。……」(エゼキエル36:20)
神の絶対的な義の規準について考えるとき、クリスチャンもユダヤ人も、いまだに真の聖さには到底及んでいないことがわかります。
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