BFPガリラヤ・スタディーセンター前所長 ジム・ゲリッシュ 2000年12月
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、購われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」(イザヤ35:8)
聖めや聖別(ヘブル語の語根はカダシュ)という概念は聖書において非常に重要で、そのことが書かれた箇所は何百カ所にも上ります。この概念の背後にある思想には、神聖さ、聖別、献身、神のため、また神の働きに仕えるために世の汚れから身を分かつ――あるいは一般に恐ろしく誤った解釈として――聖人になる、などがあります。
聖書は第一に、神が聖なるお方であると述べています。主はイスラエルの子らに、まず「あなたがたの神、主であるわたしが聖である……」(レビ19:2)と宣言しています。そして、私が聖であると同様にあなた方もまた聖なる者とならなければならない、とご自分の選ばれた民へのことばを続けています(レビ11:45、20:26)。また、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と語っています(出エジプト19:6)。
この事実を示すために、神はご自分の民のエジプトからの分離(=出エジプト)を自ら率先して行なわれ、彼らと世の人々との間に区別をされました。私たちは申命記7章6節で、神がご自分の選ばれた者たちをいかに特別に区別されたかを見ることができます。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」
神は、ご自分のものとして一旦、彼らを聖別されると、エルサレム、あるいはシオンと呼ばれる聖なる丘へと彼らを導かれました。聖書は、「主は聖なる山に基を置かれる。」(詩篇87:1)と教えています。イスラエルが聖地と呼ばれ、エルサレムが聖なる都、またイスラエルの人々が聖なる民と呼ばれるのは、もちろん無意味なことではありません。
この「聖め」や「世俗からの分離」という思想は新約聖書へ受け継がれています。主がイスラエルに命じられたのと同じく、新約聖書はクリスチャンたちに聖なる者となるよう命じています。『それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』(第1ペテロ1:16)
イスラエルと同じように、クリスチャンは聖なる祭司、そして聖なる国民となるよう召し出されており(第1ペテロ1:5、9)、聖なる神殿とさえいわれています(エペソ2:21)。クリスチャンには、教え、導き、励ましを与えてくださる聖霊さまが遣わされていますから、神さまとはどのようなお方で、何がおできになるのかを知る最初の糸口を聖霊さまが与えてくださるはずです。ヘブル書12章14節によれば、人は聖くなければ誰も神を見ることができないということがわかります。これはすべてのクリスチャンに対する警告です。
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