どうすれば、この信頼と安定を生活の中に増し加えることができるのでしょうか。もちろん、現代の哲学者たちから学んでもそれは得られません。彼らは、彼らが属するこの世の体系と同様、過ぎ去っていきます。熱風が吹けば、一瞬で枯れしぼんでしまう野の草や花々と同じです。私たちはどこへ方向転換をすればよいのでしょうか。永遠に生き続ける神のみことばに向かってのみ、方向転換をすることができるのです(第1ペテロ1:24-25)。
神のみことばは、まず何よりも第一に岩の上に生活を建てるよう私たちに教えています。私たちはクリスチャンとして、この岩がまぎれもなくキリストであり、彼に信頼する者は決して失望することがないというみことばを信じています(ローマ9:33)。イエスとそのみことばの上に家を建てる人は、やがて来る嵐の中でも安全に守られます。「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。」(詩篇91:9-10)
このことばを言い表したとき、詩篇の著者はイエスについて待ち望み、語っていたのかもしれません。
神を信頼することによってのみ、自分たちが安全に保たれるということを、昔の信仰の偉人たちは知っていました。詩篇46篇は、大きな災いと苦悩が起こったときのために書かれた詩であると思われます。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」(詩篇46:1-3)
このような信仰こそ、たとえ世界がその継ぎ目からバラバラと崩れても、決して揺るがない信仰といえるでしょう! 終末神学を持ち出さなくても、今、この世という布地がすでに裂け始めているという事実に異を唱える人は誰もいないでしょう。私たちはこの現実と向き合わなければなりません
大昔の、私たちの父祖たちの揺るぎない信仰が、ただ口先だけのものではなかったことを聖書は保証しています。それは彼らの生き方そのものであって、彼らの存在の全領域に流れていました。詩篇の著者は語っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)
神があなたの右におられるということは、すべてのことについて神に知恵を求め、いつどんなときも神に信頼し、拠り頼むということです。タナハの信仰は、人の歩み方、話し方、立ち居振る舞い、衣服の着方、結婚や子育ての方法、家の建て方、耕作の方法、家畜の世話の仕方など、隅々にまで及んでいます。それは彼らの生活全体に流れ、すべてを整えていました。今、キリストにある私たちの信仰も、まさしくこのような信仰でなければなりません。信仰が私たちの生き方そのものであるべきなのです。
さらに神のみことばは、私たちが神と神のみこころに完全に従うよう教えています。詩篇37篇28節から31節には、正しい者は永遠に守られるが、悪者は断ち切られると書かれています。また、正しい者は地を受け継ぎ、そこに永遠に住むとも語られています。そして30節から31節では、正しくあるとはどのような意味かを学ぶことができます。「正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。」
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