イスラエルの民は紅海を渡り、パロから、またエジプトの手から奇跡的に脱出しました。またトーラー(律法)が与えられたばかりで、生ける神が雲と火の中に現れるという体験をしたところでした。しかし、山の頂上に登りつめたすぐ後に、荒野でさまようことになりました。それから数世紀後、イエスも同様の体験をされました。洗礼を受け、神の声を天から聞かれたすぐ後に(マタイ3:16、17)、40日40夜、荒野で悪魔からの試みを受けられたのです。
イエスへの誘惑(マタイ4:1-11)は、私たちが荒野の経験をしたときにどう生き残るかについて導きを与えています。サタンはまず、「神が与え主である」ということに関してイエスを試みました。イエスは、人はパンのみに生きるのではない、神の口から出る一つひとつのことばによって生きるのだと答えられました(4節)。荒野には自然の食物はなく、またそれを生産する方法もありません。私たちは、神がすべての源であることを厳しい方法で学ばなければなりません。神のことばは真実であり、人生をそこに賭けることができるということを知らなければならないのです。
荒野で、イスラエル人は天から奇跡のパンを受け取りました。試みの後、イエスには御使いたちが近づいてきて仕えました。パンやその他の必要について心配しなくてもよいのだということがわかるまで、神は私たちを荒野に置かれます。私たちはそこから心配せずに、空の鳥や野のゆりのように生きることを学びます(マタイ6:25-34)。
イエスが受けられた2番目の誘惑は、「神を試す」ということでした。イエスは今一度、「あなたの神である主を試みてはならない。」(マタイ4:7)というみことばをもって悪魔に応えました。イスラエル人は神を試すということに関して何度も過ちを犯しています。彼らは天からの食物についても文句を言い、約束の地に入ることができないのではないかと恐れました。そしてついに40年間も荒野をさまよわなければならないほど神を試みたのです。
“試練の時”が私たちに訪れるとき、ヘブル書3章8節から4章11節に書かれているような恐ろしい警告を覚えていなければなりません。そして、神が脱出の道をも備えていてくださるということも知るべきです(第1コリント10
: 13)。神は耐えられないような試練を与えることはなさいません。神は忠実で信頼できるお方です(第1ペテロ4:19)。同時に息子や娘として、時には私たちを懲らしめられることもあるのです(ヘブル12:6)。神の試みには愛の目的があります。それゆえ、そのような試練を経験することは私たちにとってこの上もない喜びであり、祝福であると考えるように聖書は勧めています(ヤコブ1:2、12)。
イエスが試みられた最後の領域は、「神のみを礼拝する」ということでした。イエスはこれにもみことばをもって応えています。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:10)
荒野において、イスラエルの民は礼拝に関する大きな問題を起こしてしまいました。モーセが山で主の律法を受けているときでさえ、人々は礼拝のために金の子牛を作るのに忙しくしていたのです(申命記9:7-21)。この金の子牛が私たちにとって忌まわしいものとなるまで、しばしば神は私たちを荒野に置いたままにされます。子牛とは、私たちの日常生活におけるものをも指しています。仕事、家、成功、名声、富、車といったものです。これらのものに心奪われるとき、私たちはしばしば荒野に直面しなければなりません。
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