聖書は、義人を井戸にたとえています。「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。」(箴言10:11)。義人は嘆きの谷を通り過ぎるときでさえ、そこを井戸とします(詩篇84:6)。
神の民であるクリスチャンは、元気が出る冷たいいのちの水を、この時代の渇いている人々に運ぶことができるはずなのです。
霊の器を「井戸型」にすることは、「貯水池型」よりいくらか良い方法です。しかし井戸もやはり制限があり、ひとつの家族、もしくは小さな村に必要な分量しか供給できないでしょう。暑い夏には、井戸でさえ干上がってしまうことがあります。昔、私の妻の家族が井戸に頼って生活していたことを思い出します。夏の暑さの中で、別の場所から水を持ってこなければならないこともしばしばでした。ときには、井戸が干上がってしまい、洗濯さえできませんでした。さらに、井戸も汚染してしまうこともあるのです。
神が望んでおられることは、私たちが“泉”になることです。民数記21章17節に、モーセと長老たちが掘った奇跡の泉を見ます。「そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。『わきいでよ。井戸。─このために歌え。─』」すべてのイスラエルは、湧きいでる泉から水を得ることができました。これこそ、からの水がめ、ひびの入った貯水池、汚染された井戸に対する答えなのです。
イスラエルは、泉のある地として聖書に描かれています。これは今日でも真実です。エンゲディ、エンカレムといった地名がありますが、「エン」というヘブライ語は、泉を意味しています。それでそこに泉があることがわかります。泉の水は美味しく清潔で、汚染されることがなく、容量にも制限がありません。それは干ばつのときでさえ冷たく、私たちを元気づけてくれます。泉には、人数制限がありません。ひとりふたりではなく、何千人もの人々の必要に答えることができます。井戸は汲みに行かなければなりませんが、泉は人々に流れ出て行くものです。
私たちは自分自身に問わなければなりません。「自分の井戸を持っているだろうか。」「それよりもさらに素晴らしい、自分の泉を持っているだろうか。」「私の生活は、ほかの人の潤いとなり、流れ出ているだろうか。」「自分の水がめを満たすために、ほかの人のところへ行っていないだろうか。」何年信仰生活を送っているクリスチャンであろうと、定期的に自分の霊的状態を評価する必要があります。
ここで小さなテストをしていただきましょう。あなたの生活をもっともよく表しているのは以下のどれでしょうか。
- 骨のように乾燥している。
- たいてい乾いている。
- 確かに水があるが量が少なく、いやな臭いがする。
- イエスをとおして、私には自分の霊性をささえるための井戸がある。
- わたしには自分から流れ出るいのちの泉がある。
もしあなたの答えが、はじめの1〜3のいずれかに当てはまるなら、あなたは生活を変える必要があります。
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