BFPガリラヤ・スタディーセンター前所長
ジム・ゲリッシュ 1999年9月
イスラエルでは「仮庵の祭り」において、雨を乞う祈りがささげられます。この祭りは、約半年間一滴も雨が降らない乾期が終わった後に行われます。乾期を経て、全てのものが非常に乾燥しています。祭りの期間中に、乾期後の最初の雨が降ることがよくあります。この貴重な天からの水が、大きな喜びをもたらします。そして人々は、さらに多くの雨が降るようにと願うのです。
聖書時代、「水を汲む祝い」が仮庵の祭りの大切な一部でした。この祝いでは、若い祭司が金の水差しをとり、シロアムの池の水でそれを満たします。そして祭司は、たいまつをもった人々の行列を率いて、神殿にまで上っていきます。
ラビはこの祝いをイザヤ書12章3節に結び付けていました。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」ラビはまた、「水を汲む祭りにおいて、喜びを経験しない人は、生涯における本当の喜びを経験しない人だ」と言います。イエスが驚くべき宣言をしたのも、この「水を汲む祭り」に関係があります。仮庵の祭りの最終月に、彼は大声で叫びました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」(ヨハネ
7:37)。 著者ヨハネは、ここで聖霊について話していました。人間が生きるうえで水を求めることは基本的なことです。霊的な食物についても同様です。この真実について、いくつかの面から学んでみましょう。
◆神への渇き
聖書には、「水を求めることは神への渇きのたとえ」とされているところが数ヵ所あります。旅の途中、サマリヤを通られたイエスは、スカルの井戸に水を汲みに来たひとりぼっちの女性と出会いました。彼女はうだるような暑い昼どきに井戸に来ました。この女は、ほかの女性たちにあざけられることを避けて、ひとりで来たにちがいありません。普通の生活をしている人なら、夕方か早朝の涼しいときに水を汲みに来たでしょう。サマリヤのその女性は、天然の水を必要としていました。しかし同時に「霊的な水」をも必要としていたのです。
イエスは彼女に言いました。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(ヨハネ4:13-14)。おそらくこの女性は、自分の霊的な生活が渇いていることを知っていたでしょう。イエスは、すぐにそのことに気づかれ、彼女の今までの生活と、みじめな過去について指摘したのです。「あなたはかつて5人の夫がいたが、現在一緒に住んでいる男性は夫ではない」と。
この時点で彼女は、自然の水を求めていたことをすっかり忘れ、渇いた魂を潤す霊的な水を探し始めていました。彼女は、イエスからいただいたこの「命の水」に大喜びし、水がめを置いて村に走って行き、すべての人にイエスの話を聞くようにと勧めました。
神のない人間の魂は渇ききっています。詩篇の作者は叫びました。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩42:1-2)
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