BFPガリラヤ・スタディーセンター前所長
ジム・ゲリッシュ 1999年8月
主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 出エジプト記33:17
“神を知ること”こそ、宗教の究極の目標でなければなりません。それは堕落前のアダムに代表されます。アダムはエデンの園を神とともに歩きました。またエノクも神とともに歩んだと書かれています。あまりにに親しい友情のゆえに、ある日エノクは神とともに散歩に出かけ、それっきり地上に帰って来ませんでした。アブラハムもまた神とともに歩み、神の友と呼ばれました。「族長」という言葉には、アラビア語で「エル・カリール(神の友)」という意味があります。モーセは神とともに歩み、神と語りました。民数記12章8節から、彼が顔と顔を合わせて神と語ったことが読み取れます。
ユダヤ教とキリスト教の本質は、神との関係にあります。ミカ書6章8節は、旧約神学において、最も大切な事柄を含む箇所だといわれています。そこには次のように書かれています。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」 ユダヤ教では、律法とその宗教を支配する伝統全体を、「ハラハー」と呼んでいます。ヘブライ語の「ハラハー」は、「歩く」という意味の語(語根:ヘー・ラメド・カフ)から派生しています。そうです。真の宗教とは、神とともに歩くこと、すなわち神との関係、神との友情なのです。
新約聖書でも、「神との関係」「神を知ること」が強調されています。福音書の著者ヨハネは、「イエスは父なる神を完全に説き明かすために来られた」と言っています(ヨハネ1:18、14:7)。イザヤ書7章14節で「インマヌエル(神われらとともにいます)」といわれたお方こそ、イエスであると新約聖書は宣言しています。また神は聖霊をとおして、信じる者とともに生き、その心に住んでくださる語られています。
神との健全な交わりをがある人は、さらに神を知りたいという叫びがいつもあるものです。使徒パウロは、キリストが目の前に現われるという体験を何度かした人ですが、のちにこう語っています。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(ピリピ3:10-11)。パウロでさえ主を知る必要があるなら、私たちはなおさらのこと、神をさらに知る必要があるでしょう。人類に訪れる最後の審判の基準は、主を知っているかどうかに基づいています。イエスはかつてこの審判について語られました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ
7:21-23)。
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