異教徒たちとは異なり、イスラエル人は信仰によって生活をしなければなりませんでした。彼らは常に最良の動物を神にささげるべく選別していました。一方、神を信じない異教の民は、彼らのものをひそかにとっておき、自分たちの群れを増やそうとしました。不思議なことに、最後に群れが増え、隣人からねたまれるのはイスラエル人の方でした。これは、初代のキリスト者たちが農地や家を売り、その代金の100%を使徒に差し出したことを理解する手助けになることでしょう。彼らは自分たちのお金や家がなくなるとは思っていませんでした。なぜなら、キリストにある栄光の富をもって、神が必要をすべて満たしてくださると知っていたからです。(ピリピ4:19)
◆今もできるいけにえ
いけにえの概念は過ぎ去ってしまった訳ではありません。真の信仰は、今もそれを要求しています。キリストは最も大切ないけにとして、ただ一度、私たちの救いのためにささげられました。これに応答して、私たちがささげるいけにえがあります。それは感謝のいけにえです(詩篇116:17)。また、祈りと賛美のいけにえ(ヘブル13:15、詩篇50:23)、贈り物(ピリピ4:18)、さらに砕かれた悔いた心といういけにえです(詩篇51:17)。ローマ書12章1〜2節には、自分自身のすべてをささげることについて書かれています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」 もし自分たちの宗教にどのような意味があるかを知りたいなら、どのくらい犠牲をささげているかによって、それを見ることができます。これは良い指標となるでしょう。
信仰が活力を失うとき、いけにえが欠けていることがしばしばあります。たとえむちゃだと思っても、自分にとって大切なものをささげなければならないときがあるのです。
何年も前、神に大きなことをしていただく必要があったときのことを思い出します。私たち一家は、引越しをしなければなりませんでした。家を売ることについて、私と妻は神に信頼していました。しかし何も起こりませんでした。当時、教師だった妻の給料にかなり頼り、月々の支払いや子どもたちの食費をまかなっていましたが、我が家の財政は逼迫していました。この問題を考えていたとき、妻が「月給をすべて神にささげる必要があるのではないか」と提案してきました。私は身震いしました。実際、気絶してしまうほどでした。しかし彼女が正しいことを知っていました。私たちは、そのおそろしいいけにえをささげました。喜ばしいことに、すぐに家が売れ、引越しをすることができました。奇跡的にお金を失うこともなく、1回の食事を欠くことさえありませんでした。
受けることを期待するような、自己中心的気持ちでささげないように気をつけましょう。しかし犠牲を払うなら、ささげたものに対して、神ご自身の方法と時に、その代りとなるものが与えられるという信頼を持ちましょう。神にささげると、不思議なことに、与えられたものを保つだけでなく、それ以上の祝福がやってくるのです。驚きと共に、マルチン・ルターは「私は多くのものをこの手中に持っていた。そしてそれらをすべて失った。しかし私が神の手に預けたものは、今すべて持っている。」と言いました。箴言の著者も、良く似たことを言っています。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」(箴言11:24)。
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