私たちは、様々な方法で神に近づきます。ときには着飾ったり、長い祈りやその他の手段で自分自身を神に受け入られるものにしようと努力します。神に近づくために「自分で自分をきよめよう」とします。しかし、神が定める順序は、祭壇が先に来て、祭司のきよめの沐浴の大水盤はその次に来ることを忘れないでください。神に会う前に、自らを洗うのではありません。その前に、まず血のいけにえがなければならないのです。それから新生とみことばをとおして、神が洗いきよめてくださいます(テトス3:5、エペソ5:26)。この血のいけにえを自分でつくることはできません。ずっと昔、イエスの死においてのみそれが成されたのです。
◆犠牲(いけにえ)の原則
さらに、いけにえにはどんな意味があるのでしょうか。もっとも大切な原則は、神がすべてにおいて第一であるということです。イスラエルでは、初子や初穂のささげものをとおして、これを表現しています。農夫たちは、自分が味わう前に、最良のものを神にささげなければなりませんでした。オリーブの一番絞りは、メノラー(燭台)の油にするため、神殿に納められました。また果物を植えた場合、果実を収穫するまで3年待ち、4年めの収穫はすべて神にささげることが求めらていました(レビ19:23-25)。これは、民に忍耐と信仰を教えるために、神がとられた方法です。可愛がって、楽しみに待っていた牛の子どもを、その大切な初子を、神に全焼のいけにえるときの気持ちを想像してみてください。
旧約は、犠牲(いけにえ)の宗教です。ダビデ王は言いました。「費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません」(第2サムエル24:24)。今日、私たちは、10分の1献金をすることさえしりごみします。旧約の宗教は、ここから始まりました。10分の1のささげものの後、安息年が訪れました。農耕社会では、7年に1度農作を休みました。これは事実上、14.2%を神にささげることになります。ここには、安息年にすべてのヘブル人奴隷が自由になり、同胞者の負債が帳消しになることは考慮されていません(申命記15:1-2)。もし畑の端を収穫せず、貧しい人に収穫させるなら(レビ19:9)もう5-10%ささげることになるでしょう。安息日を守る人は、生産をしないことで、さらに14.2%ささげることになります。
50年ごとにヨベルの年があります。このときには、すべての所有物はもとの家族に返され、ヘブル人の奴隷は自由にされます。その家族がどのくらい裕福であるかにもよりますが、それは2-10%にあたるでしょう。合わせると、すべての所得のおよそ50-60%をささげていることになります。
ささげものには数えられませんが、初子と初穂のささげものに加え、男子は年1回、エルサレムに上ることを要求されました(出エジプト23:17)。彼らは、神の前に何も持たずに出ることを禁じられていました(申命記16:16)。ですから、そのたびに、群れの中から動物をたずさえて行きました。主の前で若い牛をほふり、祭司がその血を会見の天幕の入口にある祭壇の回りに注ぎかけました。その他にも、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえなどがありました(レビ1-5)。これらのささげものは、容易に所得の5-10%になる可能性があります。いけにえが、真実の信仰を導き出すことは明らかです。
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