BFPガリラヤ・スタディーセンター前所長
ジム・ゲリッシュ 1999年7月
礼拝におけるいけにえは、非常に古くからある概念です。いけにえなしでは、真の礼拝が行われることはないと言えるでしょう。聖書の始めにおいて、すでにアダムの子どもたちがいけにえの儀式を行っていたことがわかります。その後、ノアやアブラハム、イサク、ヤコブもいけにえをささげました。ヨブとその友人たちも同様です。この概念は、のちにモーセに与えられた律法の一部となりました。さまざまな形のいけにえについて、レビ記のはじめにくわしく書かれています。
ほとんどの場合、いけにえとして羊、ヤギ、子牛などの血を流すことが要求されています。血を流すことは、人が神に近づくという、非常に大きな問題を含んでいます。これは、畑の収穫物からカインがささげ物をした箇所でもわかります。彼のささげ物は不十分で、神に受け入れられませんでした。一方、アベルは血を流すささげ物をして、受け入れられました。アベルは信仰によってささげたと書かれています(ヘブル11:4)。彼は、おそらく後に来たる救い主、すなわちただ一度ささげられることで罪の問題を解決する、未来のいけにえを待ち望んでいたのでしょう。
聖書時代の幕屋と神殿は、いけにえについて多くを教えています。これらのすばらしい建築物において、真の神との交わりが可能でした。どちらの建物も、その構造自体が霊的な進展を絵のようにあらわしています。まず外の庭に入り、それから内の庭、そして神が住まわれる至聖所に入ります。選ばれた祭司のみがこの至聖所に入ることができました。しかし、血を流すささげ物なしでそこへに入ることはありませんでした。
外の庭に入ったとき、すぐに祭壇に対面することには、重要な意味があります。祭壇が神の御前に出る道をふさいでいますが、それを通過することにより、その内側で人は神の臨在を経験するのです。古代、あらゆる種類の動物が祭壇の上でささげられました。それは、よりよいいけにえである必要がありました。しかし、動物のいけにえは、繰り返しささげなければならず、その有効性に深刻な問題がありました。(ヘブル10:1-4)
クリスチャンとして、私たちは神であられるキリストが、すべての人の罪のために、ただ一度ささげられた、完全なささげ物であると信じています(ヘブル10:14、イザヤ53:10)。詩篇40篇6-8節では、ささげ物についてこう語っています。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも罪のためのいけにえもお求めになりませんでした。そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。』」
ヘブライ語で、ささげものをあらわす重要な語に、「クフ・レーシュ・ヴェート」があります。この語根は、「近づく」「接近する」という意味があります。文字どおり、いけにえなしでは神に近づくことができません。ささげ物そのものを表す語「カルバン」もこの語根から派生したものです。「ささげ物」についての考え方と「神に近づく」という概念は、聖書では深く関わりがあります。現在、人間がこの考えを失ってしまったのは驚くべきことです。
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